価値相対主義と誤った価値

2019.10.17 Thursday

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     価値相対主義が欺瞞であることは西洋倫理学では知られていることです。一方で、誤ったものを価値と主張することはどうでしょうか?例えば論拠を持たない価値の主張、つまりドグマです。価値観に正否はないかもしれませんが、価値には正否があります。正しい価値を示す思想の有力候補には、徳倫理学と功利主義とカント哲学とがあります。もちろん人文科学も可謬なのでこれら3つすら実は誤っているということはあり得ますが、論拠を持っておりドグマではありません。ドグマに該当する例としては、何らかの宗教のみに基づいた価値の主張が考えられます。

     

     この比較は異文化コミュニケーションに関わりそうです。しかし異文化コミュニケーションの文献に答えが載っているかはまだ僕は存じません。何かしら載っていたとしても載っていることを反映した判断で不十分であれば、悪人は文献の言外の常識があるとして攻撃してくるでしょう。この比較について、誤ったものを価値と主張する方が価値相対主義よりまし、と以前考えていたと思いますがなぜそう考えたのか現在分からなくなっています。皆様はどういう理由でどちらがましだと思いますか?

    児童と賭博

    2019.10.14 Monday

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       高校までの学校において、大部分の生徒たる児童が友情と称するものは偽物でしょう。特に、児童の賭博による借金関係で児童は行動することが多いでしょう。借金関係から結託して、賭博をしない児童へのいじめをするのです。学校のベランダなど教師があまりいかな場所は賭場となりえます。見張りをする児童もいます。犯罪の技能と悪意は児童でも十分に持っています。大部分の教師は賭博やいじめを防ごうとはしないでしょう。日本の教師は生徒同士を友達と決めつけますが、欺瞞です。児童の関係というものは遊び仲間か敵であることが大部分です。

       

       そもそも友情は学ぶものなのかどうかは難しい問題ですが、仮にそうだとしても学校には友情がほぼ存在していないので、学校は友情を学ぶには適しません。そして賭博に惹かれれば徳育に反します。また賭博をする児童たちによるいじめから児童を守る必要もあります。いじめの被害者は知育の機会を侵害されます。これら学校の弊害を防ぐためには、日本もホーム・エデュケーション (ホームスクール) を認めることが必要です。ホーム・エデュケーションにおいても教会に通うなどは構わないので、教会などで友情に触れる機会はありえます。

       

       

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      漫画やアニメやゲームは芸術か?

      2019.10.13 Sunday

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         漫画やアニメやゲームが好きな学生は今日では多そうです。しかし漫画やアニメやゲームを芸術として認めない方々は芸術が専門ではない大学教員を含めてそれなりに大勢いるのではないでしょうか。一方で小説や映画は今日ではほとんどの方々から芸術と認められています。もちろん芸術のジャンルは小説や映画以外にもありますが、簡略化のためにこの記事では直接は触れません。またこの記事で言うゲームはビデオゲームのことであり、アナログのチェスなどは含みません。

         

         芸術の専門家がどう考えているかが真相を知るうえで参考になります。漫画やアニメやゲームは、大学で芸術として教育のトピックスにされることがあります。また美術館で展示の対象となることもあります。これらからすれば、芸術たりうると判断すべきです。素人感覚でも、『はだしのゲン』や『となりのトトロ』などを具体的に考えれば芸術と判断しそうなものです。なお『はだしのゲン』がしている反米主張には僕は賛同できません。

         

         もちろんあらゆる漫画やアニメやゲームが芸術に該当するとは思えません。一方で、小説や映画であっても芸術に該当しないものもあるでしょう。芸術たりうるジャンルであっても、読者や視聴者が暴力描写を楽しむだけだったりすればその作品は芸術ではないであろうということです。僕は功利主義を活用する際にあまりミルの発想は参照しないのですが、そうしたものはミルならば質の高い快楽は得られないものと判断するでしょう。反対にミルが質の高い快楽を得られるものと判断できれば芸術でしょう。

         

         漫画やアニメやゲームと小説や映画との社会的評価の違いは、単に漫画やアニメやゲームが相対的に新しいジャンルだから、という程度しかないのではないでしょうか。実際に、現代では映画が多数制作されているフランスにおいても映画はかつて社会的評価が低かったようです。そしてサルトルは先見の明があったと何かで聞いたか見かけた気がします。そうであれば、今日において漫画やアニメやゲームを趣味として履歴書に書いた応募者を企業は採用時に偏見なく扱うべきでしょう。

        悪問や難問の出題を避ける

        2019.10.12 Saturday

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           僕が担当している会計機Σ餬廰兇了邯海任蓮⊂なくとも最近は悪問の出題を小テストでも期末試験でも避けることができていると思います。信頼はできませんが、悪問が出題されたという噂は会計関係の資格試験でもインターネット上に流れることがあります。悪問は学生なり受験者なりの理解度の測定に向きません。理解度を正確に測定するためには、悪問の出題は避けた方が良いのです。ただしかつて笠井名誉教授が公認会計士の試験委員だった際の、慣れていない受験者には珍問に見えたであろう問題は、実は悪問ではなく良問だったのだと思います。

           

           会計機Σ餬廰兇了邯海任蓮∨佑郎廼瓩脇駝笋僚仟蠅眸鬚韻襪海箸できていると思います。入門科目であるため難問を解けるようにすることは授業目標外であるためです。もちろん、オフィス・アワーやメールでの質問では難問に対応した質問にも応じられますし、むしろ歓迎です。授業内で質問をしてくれるのも歓迎です。

           

           

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          学生らしさの強要

          2019.10.11 Friday

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             様々な大学において学生らしさをよしとする方々が見られます。レポートや卒論やビジネス・プランなどの評価に学生らしさを含めてしまうと、学生らしさを学生に強要することになります。そして完成度の高さが適切に評価されなくなってしまいますし、勤勉な学生のやる気をそいでしまいます。

             

             ジェンダーについて、男らしさや女らしさという発想が日本社会にあることは知られていますが、こうしたらしさの強要は個人の尊重に反します。GHQによる改革後、日本法は憲法に限らず建前としては個人を尊重してきました。またキリスト教は個人主義と親和性が高く個性を尊重するので、キリスト教主義の大学にとって個人の尊重はより重要です。さらに僕は折り紙がかつて好きであり男らしくない趣味だったわけですが、そしてそれがおそらく今の芸術好きにつながっているのですが、日本社会といえどもそんなものを制限しようとはしないでしょう。日本社会に意味があっても日本社会が何でもしてよいとは僕は思いませんが、制限するのが日本社会にとっても無意味だからです。そしてこの話はらしさにある程度の一般化ができます。

             

             レポートや卒論やビジネス・プランに学生らしさを求めるのは、学生を個人として尊重していません。また日本社会にとっても無意味です。よってこうしたものに学生らしさを求めるべきではありません。ただし学生らしく授業に出席すべし、と言っても個人は尊重されます。アメリカの発想では、大学で単位を取得していくのは、学生と学校法人の間での個人と法人の契約です。アメリカは大学教育の先進地であり日本も見習うべきです。そして契約の尊重は個人主義的です。

             

             

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            資格試験の受験環境

            2019.10.10 Thursday

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               学生の皆様にとって日商簿記やTOEICなどの資格試験の受験は身近でしょう。簿記力や英語力などの技能は実力です。しかし他の受験者などからの騒音があるかないかなどというのは運です。日本には運も実力の内という悪しきことわざがあります。このことわざからすれば騒音などの運の要素を放置するべしとなってしまいます。西洋の倫理学において因習主義は批判されています。ことわざがあることを以って運を尊ぶのは因習主義である点で悪いのですが、もう少し踏み込んで考察してみます。

               

               僕はあまりロールズに賛同はしていませんが、それでも倫理学において影響力のあるロールズは運による影響に批判的でした。だからこそロールズは平等を重んじたのです。技能を測定するための資格試験は、運を測定するための試験ではありません。測定を目指していないものによって成績が左右されてしまうのは、成績の基準が不平等ということになります。少なくとも大抵の場合には基準の不平等は悪いものであるからダブル・スタンダードは大抵の場合は悪いのです。結果の平等に反対の僕も基準の平等には賛成です。そして運を尊ぶと基準が不平等なので不公正にあたる、と僕は思います。

               

               皆様はどういう理由でどう思いますか?

               

               

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              言える冗談の範囲

              2019.10.09 Wednesday

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                 授業において、僕も冗談を言うことはあります。アメリカではユーモアは重視されます。シェイクスピア文学に見られるような単語選択によるユーモアもあるにせよ、冗談もユーモアの手段です。しかし授業において教員が言える冗談の範囲がどこまでであるかは難しい問題です。ものによっては教員が冗談として言ったことでも、一部の聞き手にとってそれは冗談ですが冗談じゃないとなりうるわけです。

                 

                 まず、新約聖書で下品な冗談は禁じられています。そして関東学院はキリスト教主義の大学ですし僕自身もキリスト教徒です。そのため一部のアメリカン・ジョークも含めて、下品な冗談は言わないようにしています。アメリカン・ジョークには僕は関心を持っているのですが、授業での実用性が一部制限されるのです。僕はジョージ・ワシントンに敬意を持ちつつも、ワシントンの例のジョークは語れていますが。

                 

                 ブラック・ジョークは僕自身は好きであり、言うことがあります。イギリスではブラック・ジョークが好まれています。しかし精神的に傷つく人がいそうなブラック・ジョークは避けるべきでしょう。ベンサムの功利主義から考えれば、笑うことができある程度の人数はいる聞き手の小さな快楽を人数は少なくても精神的に傷つく聞き手の深刻な苦痛が上回るからです。その精神的に傷つく人はその場にいる学生たちがまずは候補ですが、潜在的な聞き手も含まれます。

                 

                 

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                教員の政治的中立の難しさ

                2019.10.08 Tuesday

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                   曖昧な規程ですが、教育基本法第14条からすれば大学においても教員の政治的中立という発想はあるのかもしれません。しかし政治的中立には難しさがあります。中立といってもあいだを採るという意味ではないでしょうから (もしそうであれば多数派が平均に大きな影響を与えるので多数派に従う保守に近い発想なら学生に押し付けてよいとなりますから)、関与しないという意味で中立と言っているのだろうということは分かります。また学生に政治的見解を強制しないようにという趣旨なのも見当は付きます。さらには強制はなくても、独立した意見形成を阻害することを避けるという発想がもしあればその発想も理解できます。僕も、法的には問題ない気はしても、選挙直前に自分自身がどの候補や政党に投票するかを念のために学生に明かさないようにしています。独立した意見形成を学生に促すためです。

                   

                   まず、教員に限らず政治的中立が技術的にそもそも可能なのかという問題があります。例えば、政治的に中立と称することは政治的に保守的であるということに含まれてしまい、保守か革新かは二択であり中立はないのではないかということです。皆様はこの問題についてどういう理由でどちらだと思いますか?

                   

                   次に、政治的中立がありうるとして、どの範囲まで政治的中立が要るのかという問題があります。この問題については、弁護士の渡辺氏による秀逸な記事がYahoo!ニュースで紹介されています。渡辺氏によると政治的中立が要る範囲は相当に限定されるそうです。僕は授業では経済政策や福祉政策に触れるような場合を除けば政治にあまり言及しませんが、政治的な主義主張は持っています。そして授業時間外に (特に文科政策についての) 政治的な署名をしたりデモに行ったりすることもありますが (最近参加したいデモがなかなかありませんが)、こうしたものは政治的中立が不要な活動なのです。しかし難しいのは、教育基本法第14条が曖昧なためか、具体的な線引きが渡辺氏の記事を見ても曖昧なことです。この曖昧さは政策に関係する授業を実施する際には、採れる教育手法を制約し教育効果を限定してしまうことになりかねません。例えば会計学に関係が深い分野では、租税論で消費増税を論じる際にです。この線引きに関して、日本の大学教員の平均と感じるものと比べて僕は授業における政治的中立を尊重している方だと思います。皆様はどこで具体的な線引きを、どういった理由でするべきだと思いますか?

                   

                   

                  参考文献

                  渡辺輝人「自民党が学校の先生の政治発言の密告を推奨した件」『Yahoo!ニュース』2016年7月9日 (https://news.yahoo.co.jp/byline/watanabeteruhito/20160709-00059798/)。

                   

                   

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                  礼拝後に仕事

                  2019.10.06 Sunday

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                     今日は今井館で若手向けの礼拝がないこともあり、久しぶりに関東学院教会の夕礼拝に出席してきました。しかし、その後で自宅に帰ってから少々仕事がありました。校務ではなく、研究です。安息日なので極力仕事は避けたいのですが、差し迫ったものでした。安息日を厳格に守るキリスト者の方々のことは、敬虔だと思います。

                    ネイティブ・レベルの英語力が必要な理由

                    2019.10.04 Friday

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                       僕は今、ネイティブ・レベルの英語力をつけることを目指して、ロゼッタ・ストーンでのアメリカ英語の学習などいくつかの学習をしています。まだ僕の英語力はビジネス・レベルだと思います。ネイティブ・レベルの英語力が必要な理由は、アメリカの学会で報告者のおっしゃっていることを正確に理解するためと、自分が報告する際に正確に聴衆に伝えるためです。特に事前に緻密に用意されているわけではない質疑応答ではネイティブ・レベルの英語力が正確性の担保に重要になってきます。アメリカ会計学会やARNOVAの参加者には英語のネイティブ・スピーカーでなくてもネイティブ・レベルの英語力のある方々が多いようです。

                       

                       

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