集団主義の証拠:和の文化

2020.03.20 Friday

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     日本文化がアメリカ文化と比べて集団主義である証拠の一つは、和の文化の存在です。日本で主流な宗教は世界三大宗教で見れば仏教です。仏教の庇護者だった聖徳太子が和を唱えたことは、義務教育で教えられていることでしょう。和の文化は集団主義です。おそらくあまり知られていませんが、聖徳太子は和に逆らってはならないとも唱えました。結局は集団主義に逆らってはならないということになってしまいます。そして日本文化は今日でも和の文化なのです。一方でアメリカで主流な宗教はキリスト教です。そしてマタイの福音書では、イエスが和を否定しています。日本のキリスト教は日本文化で歪められることがありそうですが、聖書は個人主義です。

     

     日本で仏教を信じない人々にまで和の文化を押し付ける際は、仏教原理主義から押し付けるか、押し付けをする本人も仏教を信じていなくても文化として和の文化を受け入れているから押し付けるか、のどちらかが多いかもしれません。しかし日本社会に都合が悪い以上は、調査すること自体も結果を報告することも困難でしょう。また、仏教徒の方々や仏教の学校などの団体の関係者が自分たちの内部でだけ和の文化に従うことを義務とするのは、信教の自由です。しかし特定の宗教に基づかない西洋倫理学が示す倫理の真理は少なくともある意味で個人主義なので、仏教を信じない人々への和の文化の押し付けは倫理に背きます。

    シリア難民とアラブ諸国

    2020.03.09 Monday

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       国際法による法的責任は別として、シリア難民を受け入れる道義的な責任はヨーロッパではなくさらにはトルコですらなくイスラエルとパレスチナとの関係でパレスチナに味方するアラブ諸国にあるのではないでしょうか。(パレスチナに味方しないアラブの国があればその国は対象外です。) トルコとは友好的なのでトルコは難民受け入れが多い国の中で例外でも、ヨーロッパを含む西洋には敵意を持つ人々がどうやらそれなりにおり、かつアラブ諸国と友好的なのが日本です。そのためこの発想は珍しいでしょう。パレスチナに味方するアラブ諸国は、アラブ人の国々でありかつイスラム教国です。つまりシリアと同じなのです。ヨーロッパにイスラム教国かつアラブ諸国に該当する国はありません。トルコ政府が何らかの打算で動いているのか法的責任や道義的責任を意識しているのかは僕は存じません。しかしトルコはイスラム教国ではあってもアラブ諸国には含まれません。もちろん、シリア難民の内で少数民族やイスラーム以外の信徒は例外です。

       

       誰かにとって必要であることが、他の誰かが義務を負うことには必然的にはなりません。日本人には不当な要求を誰かにする際にここをこじつける人がいますが、それは避けなくてはなりません。受け入れる側の国々の過大負担を避けるために民族や宗教の親和性は必要条件ではありますが、受け入れる義務があるとなる十分条件ではないのです。しかしパレスチナに味方するアラブ諸国は、宗教や民族が同じことからの連帯を味方する理由の建前としているのではないでしょうか。もしこれが合っているならば、シリア難民は受け入れないというのは矛盾です。矛盾というものについて日本人の一部は矛盾していて何が悪いと開き直りますが、理性に背きます。さらにイスラームは少なくとも建前上は理性に価値を認めているようです。

       

       なお、シリア難民を受け入れるアラブ諸国がパレスチナに味方しなくても矛盾はしないでしょう。日本では公正な報道が限られているようですが史実からすればパレスチナはイスラエルに対してどちらかと言えば加害者です。(このことについては英語で容易に文献が入手できます。) そして、連帯しているからこそ他の勢力への加害を止めるという発想もしうるからです。一方でシリア難民の受け入れは人道的たりえます。実際に建前上は人道的なヨーロッパは難民受け入れの努力が顕著です。もちろんパレスチナに味方するアラブ諸国とシリア難民の関係以外については、難民受け入れが難民以外の人権侵害につながることも視野に入れて、難民受け入れが常に人道的であるかは考える余地があります。

       

       なお、キリスト教会は全体としては、難民一般への支援に積極的なようです。お金持ちではない僕も、何らかの難民のために今までにそれなりの金額を教会を通さないもののみでもしてきたかと思います。

      ポリティカル・コレクトネスと差別

      2020.02.09 Sunday

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         今日のアメリカにはポリティカル・コレクトネスへの賛成者がそれなりにいます。ポリティカル・コレクトネスに反すると差別に当たるという発想もあるようです。一方で名門大学であるシカゴ大学はポリティカル・コレクトネスに反対なようです。シカゴ大学は、活発な議論というものを推奨したいのでしょう。活発な議論は学問の自由とも関係することでしょう。またウォートン・スクールの出身者でもあるトランプ大統領も、ポリティカル・コレクトネスに反対だったかと思います。差別は平等権の観点から防ぐべきです。しかしポリティカル・コレクトネスは本当に差別を防ぐために向いているのかを現代人は検討するべきです。

         

         A民族はB民族と敵対しているとします。ある論文の査読者はA民族で投稿者はB民族だから差別するだろう、と言えばポリティカル・コレクトネスに反することになり、ポリティカル・コレクトネスの賛成者にとっては査読者を差別したことになります。しかし実際には査読者は投稿者を差別しているかもしれません。つまりポリティカル・コレクトネスが差別の放置を強いることになりかねないのです。X教徒とY教徒とが敵対している場合も同様のことが言えます。あるいは、ある学会の事務局長はX教徒だからY教徒の会員を差別するだろう、と言うことについても同様です。そのため、僕はポリティカル・コレクトネスに全面的には賛成できません。

         

         ただし近年のキリスト教の讃美歌でも見受けられるように不快語を避けるという動きには僕も賛成です。不快語を避けることが実際の差別を防ぐことができると思うからです。ただし不快語すらも歴史学に関わる文脈では扱いが難しいです。つまり、ポリティカル・コレクトネスには全面的には賛成も反対もしない方が適切に思えます。ポリティカル・コレクトネスについて皆様はどういう理由でどうお考えになりますか?

        アメリカとイランへのダブル・スタンダード

        2020.01.07 Tuesday

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           最近のアメリカとイランの対立について、戦争への発展を避けるべきことは大前提です。戦争は経営学や経済学の観点からすれば、経済的な打撃をもたらすからです。また、アメリカ人もイラン人も死傷するでしょうし、第三国からも死傷者が出るかもしれないからです。

           

           その上で、日本の政治家や日本語マスコミなどにはダブル・スタンダードが目立ちます。国益と称するものにこだわっているらしき日本の政府関係者すらも公正に価値があると主張することがありますが、ダブル・スタンダードは不公正です。分かりやすいダブル・スタンダード (の少なくとも一部) は以下のものです:

          • 国際法をイランが破ってもあまり責めないのに、アメリカが国際法を破ったとして責めること。…ムスリムでないイランの人民をイラン政府が迫害することがあるのは国連の宣言の中で特別な位置づけにあるらしい世界人権宣言に抵触しています。最近の対立でアメリカが国際法を破ったかはまだ日本の民間人には判断材料が足りませんし、破っていても西洋倫理学では実定法にはむしろ破られるべきことがあることが知られているのでそれに該当していないかも検討が必要です。
          • 日本は何かにつけてアメリカの行動を報復呼ばわりし非難することがあるのに、イランが報復を宣言してもあまり責めないこと。…アメリカは正義の国だから多くの国々と違い特別に報復を禁じるべし、という発想ならありえるかもしれませんが、反米主義者はアメリカを正義の国とは見ていませんよね。
          • 平和主義者を装う勢力がウクライナの危機に際してロシア政府 (…おそらくロシア政府の全体が紛争を望んでいたわけではありませんが…) をあまり責めなかったのに、今回の対立ではアメリカを責めていること。…北方領土・南クリルの問題を日本の有利に運ぶためにロシア政府の機嫌を取りたかったのかもしれませんが、功利主義から見ればウクライナの若者が苦しんでいることの方が緊急の問題でした。

           

          日本の反米主義者などは、事実関係に関わらずアメリカとイランの対立でどちらに主たる落ち度があるかを最初から決めつけているのです。

           

           反米主義者でないならすべき判断は、事実関係に基づいた判断です。日本の政府関係者が特別な情報を持っているかの世はありますが、日本で民間人が容易に入手できる情報はまだ限られています。分かるものを分からないと言うのを好む日本人は多いかもしれませんが、反対に分からないものを分かると言うのを好む日本人もいるのかもしれません。判断の正確性を重んじれば、現時点で日本の民間人がすべき判断はどちらに主たる落ち度があるか確たることは分からない、というものでしょう。もちろん、アメリカは政府の情報開示の制度が整備されているようなので、ゆくゆくは事実関係がはっきりしてくると思います。

          正しい人格攻撃と悪い人格攻撃

          2019.12.22 Sunday

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             日本には正義と悪という発想があまりありませんが、常識あるいは慣習という発想から人格攻撃は避けるべきとされがちです。一方で正義を尊ぶアメリカでは、選挙において堂々と人格攻撃が繰り広げられます。正しい人格攻撃があると捉えられているからこそ堂々としているのでしょう。アメリカはキリスト教の影響が強い国であり、キリスト者の模範を示したイエスは時として激しい人格攻撃を繰り広げていました。つまり本当に検討すべきは、ある人格攻撃が正しい人格攻撃であるか悪い人格攻撃であるか、なのです。

             

             僕も支持している功利主義を使えば、正しいか悪いかの判断は比較的容易です。日本では最近は功利主義の学術的教科書は和書としてはおそらく一冊しか発行されていないほどに、功利主義が普及していません。そのため日本の司法が功利主義を理解した判決をくだせるかは怪しいです。日本の法律家にはカント哲学の方がまだなじみ深いかもしれませんが、理性を重視するカント哲学では加害者に理性があるかという難しい問題があるがために加害者をも尊重すべきか否かが判断困難でしょう。真理として正しいか悪いかを功利主義から言えることには日本でも変わりはありません。例えば、被害者が加害者を公益のために人格攻撃するのは、加害者の苦痛があろうとも公益の享受者の便益が上回るので正しい人格攻撃です。例えば、加害者が被害者を快楽のために人格攻撃するのは、公益性がなくかつ被害者の苦痛が加害者の便益を上回るので、悪い人格攻撃です。そしてアメリカの政治家たちは、公益の享受者の便益を考慮して人格攻撃をしているのでしょう。

             

             そんなことをする人々が多いかは怪しいですし、僕自身もする気はありませんが、被害者が復讐のためのみに加害者に人格攻撃する場合はどうでしょうか。この場合も、被害者の苦痛緩和が加害者の苦痛を上回るでしょうから正しい人格攻撃であると言えるでしょう。

             

             日本に溢れかえっているであろう常識の追随者による人格攻撃全てへの反対は、無責任です。特にインターネットがある程度匿名であることを乱用してオンラインで人格攻撃に一律に反対している人々は、恐怖によって正しい人格攻撃を委縮させてしまうので悪質です。功利主義にかなう以上、日本においても市民はもっと政治家間の正しい人格攻撃を尊ぶべきですし、裁判所はもし現在そうでないならば正しい人格攻撃を認めていくべきです。さらには、市民生活のより広い範囲で日本でも正しい人格攻撃を認めていくべきです。

             

             ちなみに、イエスは功利主義から何が正しいか判断したのではなく、預言者として神からのメッセージから何が正しいか判断したのでしょう。

            イラン大統領の来日への懸念

            2019.12.19 Thursday

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               もうすぐ、イランの大統領が来日します。イランは日本人多数派にとって都合の良い国ですが、核兵器関係の開発をしている国です。そして国内のキリスト教徒を迫害し、またいじめられているイスラエルに悪意を向けている国です。それでも、抗議をするためにも交渉の窓口はあった方がよいでしょう。それが来日であるべきかはともかく何らかの窓口を持ちつつ、イラン大統領来日でもたらされる害悪を懸念しておくのが適切でしょう。イランの反体制派組織は、適切にも今回の来日への懸念を表明しています。反体制派組織には、圧政を敷くイラン政府に勇敢に対抗しているので、敬意を感じます。僕の持つ懸念は、偉大な反体制派組織の持つ懸念とある程度重なりますが、クリスマスやハヌカが近い中で日本が日本化しないキリスト教徒やユダヤ人への偏見を来日をきっかけに強めてしまうことです。キリスト教徒も含めて、日本は害悪に警戒して来日に望むべきです。

              鉄道での防犯カメラに賛成

              2019.12.15 Sunday

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                 日本では、鉄道の駅や車内に防犯カメラを設置することについて、ある程度の数の反対意見が出ます。イギリスでは防犯カメラが日本より普及しているようであり、また日本程も反対意見が出ていないのではないかと思います。現在の日本では多くの痴漢の犯人が捕まらずにいるとともに多くの痴漢冤罪が生じているでしょう。防犯カメラがあれば、痴漢などの犯罪を抑止し、同時に痴漢冤罪などの冤罪を防ぐことにつながるでしょう。犯罪抑止で法益を守り、冤罪防止で自由や名誉に関する人権を守るのです。電車などの鉄道は公共交通機関なのですから、公共と付くようにプライバシーの問題はありません。痴漢をしたい人々や誰かを冤罪で苦しめたい人々の多くは防犯カメラに反対することでしょう。駅や車内に防犯カメラを設置することを監視社会と呼ぶことでの印象操作に、騙されるべきではありません。

                ロシアの提示したリストと外務省

                2019.11.25 Monday

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                   最近日本語マスコミが、ロシアが日米関係が平和条約の障害になっているとして懸念を日本に伝えて日本の外務省が対応すると約束した、というニュースを流しました。情報源が西洋マス・メディアではなく日本語マスコミですし、ロシア側の主張としての報道なので、信じきれはしませんがここでは仮に本当だとして考えてみます。ロシアとの平和条約を結ぶことには僕も賛成です。しかしアメリカとの関係を悪化させることには反対です。このリストの内容が不明ですのではっきりしたことは言えません。内容次第ではこのリストに対応してしまうことは、僕を含めてアメリカと交流がある日本人の人権やアメリカに被害を与えるでしょう。また、外交はものによっては行政ではなく立法の管轄なので、内容次第ではこのリストに外務省が対応を約束してしまうのは越権ではないかという疑念を持ちます。行政が約束してしまわずに国会で議論されれば、日本の人民は対応を早くとれますしまた利害関係のあるアメリカや他の良心ある外国が日本に意見を出すこともできるでしょう。ニュースの真偽と今後の動向が気になるところです。

                  西洋合理主義に背かない感情

                  2019.11.24 Sunday

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                     僕を含めて西洋合理主義の支持者は、感情論には反対します。ただし、博愛精神 (悪人をも愛することとは限らない) や悪を憎むことには反対しないことが多いでしょう。そして博愛精神から救貧団体に寄付し、悪への憎しみから人道団体に寄付するでしょう。あるいはそうした団体のメンバーやボランティアとなるでしょう。一方で偽善者を含む悪人の多くは感情論を支持する一方で、博愛精神に反対するとともに悪への寛容を支持します。具体的には、悪人は差別をしまた価値相対主義を好みます。悪人には幅広いバリエーションがあるのでこれに当てはまらないケースも少なくはないでしょうが、簡略化のために差し当たり置いておきます。

                     

                     問題となりうるのは、西洋合理主義に背かない感情であるためのメルクマールです。僕たちキリスト者にとっては、福音書に単純な読みをする限りにおいてイエスは博愛精神を持ちかつ悪には不寛容だった、ということは西洋合理主義者すらもつ感情を正当化します。なお、キリスト教において理性は神からの賜物の一つです。しかしノン・クリスチャンの方々との対話を考えれば、メルクマールなしでは説得力に欠けます。西洋合理主義では理性が重要なのですから、メルクマールはその感情が理性を歪めないこと、ではないでしょうか。例えば、カント哲学では人には理性があるから人権を尊重するべきだという発想に理性から至りますが、これは博愛精神と重なります。皆様は何がメルクマールだと思いますか?

                     

                     さらに僕はこれに関してもう一つ疑問を持っています。西洋合理主義の支持者たるもの、西洋合理主義に背かない感情を持っているのと、何も感情を持たないことの、どちらがより倫理的でしょうか?あるいは対等でしょうか?それはなぜでしょうか?皆様はどう思いますか?

                    慈善は理性によるべき理由

                    2019.11.17 Sunday

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                       慈善は「かわいそう」などといった感情ではなく、理性によって実施されるべきです。カントが目的としての理性を唱えたのとは異なりますが、ベンサムの功利主義は福利厚生を最大化するために理性を道具として用いる発想です。感情で慈善を実施してしまうと、福利厚生は最大化されないのです。広く利用できる統計データを見ても、日本人は理性ではなく感情で動く国民性です。慈善に関係する研究者すらも、理性より感情に実際はなってしまうことがあるでしょう。その証拠に、日本人の研究者のかなりの部分が理性的な財務指標であるSROIに反対しています。この現象はベンサムの言う邪悪な利益である可能性すらあります。会計学においてはIFRSに反対する会計学者の中に、本音では企業会計審議会の時代に会計学者が主導して会計基準を作ってきたゆえの日本基準への愛着、という実務家や株主を切り捨てた邪悪な利益を求めている会計学者もいることは多くの人々が分かるでしょう。類似した現象がSROIにもあっても不思議はないのです。西洋も今後理性の尊重を続けられるか怪しくなってはいますが、それでも西洋では効果的利他主義という慈善に関係深い理性的な発想が提唱されています。

                       

                       僕自身は、宗教目的以外の寄付をする際には理性をある程度は用いているつもりです。もちろん本当に理性が働いているかは怪しくなることもあるでしょう。