ポリティカル・コレクトネスと差別

2020.02.09 Sunday

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     今日のアメリカにはポリティカル・コレクトネスへの賛成者がそれなりにいます。ポリティカル・コレクトネスに反すると差別に当たるという発想もあるようです。一方で名門大学であるシカゴ大学はポリティカル・コレクトネスに反対なようです。シカゴ大学は、活発な議論というものを推奨したいのでしょう。活発な議論は学問の自由とも関係することでしょう。またウォートン・スクールの出身者でもあるトランプ大統領も、ポリティカル・コレクトネスに反対だったかと思います。差別は平等権の観点から防ぐべきです。しかしポリティカル・コレクトネスは本当に差別を防ぐために向いているのかを現代人は検討するべきです。

     

     A民族はB民族と敵対しているとします。ある論文の査読者はA民族で投稿者はB民族だから差別するだろう、と言えばポリティカル・コレクトネスに反することになり、ポリティカル・コレクトネスの賛成者にとっては査読者を差別したことになります。しかし実際には査読者は投稿者を差別しているかもしれません。つまりポリティカル・コレクトネスが差別の放置を強いることになりかねないのです。X教徒とY教徒とが敵対している場合も同様のことが言えます。あるいは、ある学会の事務局長はX教徒だからY教徒の会員を差別するだろう、と言うことについても同様です。そのため、僕はポリティカル・コレクトネスに全面的には賛成できません。

     

     ただし近年のキリスト教の讃美歌でも見受けられるように不快語を避けるという動きには僕も賛成です。不快語を避けることが実際の差別を防ぐことができると思うからです。ただし不快語すらも歴史学に関わる文脈では扱いが難しいです。つまり、ポリティカル・コレクトネスには全面的には賛成も反対もしない方が適切に思えます。ポリティカル・コレクトネスについて皆様はどういう理由でどうお考えになりますか?

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    2020.03.30 Monday

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